僕が描いているモデルさんの大半は
今のところ女性であり、
非常に美しい魅力を持った方々です。
そう思う僕の感覚は、
それは僕が男性であり、
異性である女性に
非常に強い魅力を感じている
という理由がひとつにあります。
まどろっこしい言い方を避ければ、
それは僕が男性として、
性として
女性を意識しているからだということです。
しかし、
それを自分で不自然に思わないのは、
やはり僕が女性に対して性的に、
そして恋愛的に憧れる、
僕が男性としての存在だからと言えます。
けれど、
僕が観察する女性に対する魅力は、
女性に対して向き合うからと言って、
女性の行為からの「女らしいところ」ではなく
「女性に感じた魅力」であると
言った方が的を得ていると感じることがあります。
この間、僕が描いている
モデルさんとお話をしていて、
そのときの話しの内容は
異性への目の向け方についての
男女間の違いについて、
という部分もあったのですが、
おそらく両者間での、
こころとこころの共鳴、
それがその当事者によって
求められることがとても多々あって、
その共鳴を求めるために、
さまざまな方法を実践したりして、
それが告白という形であったり、
そういった行動に出ることが
誰しもあるし、
その行動に出ること自体、
勇気はいることではあるかもしれないが、
それは無理強いされるものではなくて、
非常に自然な形態ではないかと、
そのモデルさんが言っていた断片の中で、
僕は思いました。
そしてこのときの僕のこの感覚も、
そのモデルさんからの非常に繊細な共鳴に
近いものではないかとも思ったのです。
けれど、こころとこころの共鳴は、
時として相手が気がつかないこともあり、
ときとして
暴力的な方法論が選択される場合、
それはもはや共鳴を求めたのではない、
別の次元のものである、ということができる、
そんな意見もあるのではないか。
そういった暴力に反する行為が
共鳴なのであり、
共鳴は、一方がその琴線に触れ、
ほんの少しでも振動が相手に伝わった時、
その振動が、どのような音を鳴らすのか、
その音が両者間で感じられたときの結果と、
その音のために耳を澄ますために、
ほんの少しの間、
なにも音をたてずに
立ち止まってみる行為の中で、
両者がその音を感じたなら、
それは男性が女性に視線を向ける際に、
「女らしさ」という
外見的な部分への見解ではなく、
まさに女性への内部に迫った
「女性に感じた魅力」に気がつくことになり、
それがモデルさんへの視点、
描く、観察する行為の本質へとなって行くのだろうか。
写真はオルレアン
サン・クロワ大聖堂のジャンヌ・ダルクの生涯を描いたステンドグラス
グロロ邸
ジャンヌ・ダルクの家の敷地内
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